2017年1月22日日曜日

隠れた自己愛、他者依存して生きない。

一度きりの人生だから好きなことを追求して
嫌いなことから逃げて生きてきたと前回書きました。
⇒1度きりの人生


そこで勘違いしてほしくないのは
嫌いなことをして生きている人を
否定しているわけではないということ。



もし否定されたと感じた人は、
自分の中に隠れた自分を否定する感覚があるんだと思います。



その感覚に正直になるか、
見ないふりをして
他者を否定するかで
大きく人生が変わるのでしょう。



自分の場合は
自分の心の奥底で
嫌だと感じていることに
正直に反応して行動してきました。




でも、責任ある立場になり、
誰かのために嫌いなことをしなければならない人も
いるのも今の社会では仕方がないこと。



が、「誰かのために」というのは
後付けの理由である場合は
気を付けなければならないんだと思います。




例えば、
自分以外の大人から言われた通り
型にはまった生き方をしてした。



でも、その型から抜け出す勇気がなかった。



気が付いたら家族ができて、
その型から完全に抜けることはできない
責任ある立場になった。



だから、「家族のため」という理由を
後付けで決めざるを得なかった。




でも、気を付けなければならないのは
「家族のため」としたとき、
自分以外の人のために生きているという事実です。



自己犠牲という素敵な精神なんですが、
それが行き過ぎてしまうと
愛情をかける相手に
依存しすぎてしまうことがあるからです。



自分の思い通りにならなかったとき
それが極端にストレスになることがあるはず。



「家族のため」という人は
こうあってほしいという幸せの家族の形が
自分の中にはあるはずです。



もしかすると、家族は自分の思い通りな生き方を
してくれない可能性だって十分ありえるわけです。



そんなとき、
一気に重い重いストレスを感じてしまうことになる。



自分の好きなことができなかった。


家族のためだから仕方がない。


その家族が自分の思い通りにならなかった。


そうなると生きる目的になっていたことが
一気に自分の存在を揺るがすものになるのです。



だからこそ、
自分の好きな事を自分のために
他人の迷惑にならない範囲で追求することは
他者に依存することを極力減らす生き方につながる
と考えているんです。



自分のために生きる。



個人主義なようですが、
冷血なものではありません。



自分の幸せが自立しているからこそ
他人に優しくなれるんです。


他人からの見返りは関係ないから。



他者依存している人は
愛情を他者に与えることが
自己愛を隠す形になっていることが多いんです。



例えば
子供のため!と言いながら、
自分が周囲から
しっかりした親だと思われたいという隠れた自己愛など。



途中途中違うことをしながら書いているんで
何を書いていたか
若干つながりが分からなくなってきてしまいましたが、
やりたくない仕事をしている人を
否定したいわけではないんです。



ただ、やりたくない仕事の目的を
「誰々のため」とスイッチしたとき、
その「誰々」は自分が思った通りの
見返りを返してくれないこともある。


そう覚悟しておくことも大切。



見返りを求めても
誰々のためと愛情を与えた側も
愛情を返さないといけない側も
お互いが苦しむことになる
可能性があるということ。



他者依存が根底にあると
苦しむことが多々あるわけです。


余計なお世話ですが、
余計なことを書くのがブログだということで。
バンコクの不思議な雲

週末の早朝バンコクに不思議な雲が。


一応パシャッ。
では。

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