2020年11月30日月曜日

本の断捨離で気づく心の成長

 本棚にある蔵書をどんどん減らしていこうと決意し、

数冊ずつ捨てています。


やっと本棚の中に隙間が目立つようになってきましたが、

ずっと取っていただけに捨てるのに迷います。


本棚に本がたくさんあるということに満足していた自分もいますが、

その自分はだいぶ前に卒業しました。


本棚に本が増えていくことに満足感を覚えている自分がいましたが、

今ではそんなことはどうでもよくなりました。


増えることへの満足感が無くなった自分がいるなら

捨てるのは簡単かというそうでもありません。


基本的に本が好きなので捨てて良い本かどうかで

即決できません。


だからちょっと内容を読むことになります。


すると気づくことがありました。


こんな本を読んでいたんだ・・・


書いてある内容に全く響かなくなっている自分がいます。


「そんなの当たり前のことじゃん。」


といった感じで心が動かない本がけっこうありました。


そんなときに考えることが、

自分も歳を重ねたことで心が成長したのだな・・・

ということです。


若いころは有難く線まで引いて読んでいた本ですが、

今読むと、線を引いたところを見ていて

心に響かなくなっている自分がいます。


さっきも書きましたが、線を引いた部分が

自分の中では「当たり前」のことになってしまっているのです。


それは血肉化したとも言えるかもしれません。


年齢を重ね、白髪が増え、肌のトラブルも増え、

色々と老化を感じることもありますが、

年を重ねることで得ているものがあるという事実を

今回の本の断捨離で感じることができました。


これは大きな実感として残るので

本の断捨離してよかったなと感じている日々です。

2020年11月22日日曜日

終活の如く断捨離

 生きていれば色々溜まるもの。


今日は1日一人の時間が出来たから

家の中で必要ではないものを探して処分することにしました。


なんだこれ?

という書類やら、過去の必要ない書類などをはじめ、

もう読まない本類やらくたびれたファイル・・・


さらに前も処分しましたけど

まだまだ年賀状もあるので、

写真に撮ってから処分。


捨て始めたら、止まらなくなり、

気がつけば大き目のゴミ袋が3袋以上に・・・


これだけ捨てるとちょっぴり軽くなった気持ちがします。


何か終活している気分。


歳を重ねると想い出が増える。

有難いことなんだけど、

ちょっとだけフットワークが重くなる気分もする。


こうやって時折、色々と処分するために

持ち物を改めてチェックするのも良いなぁって思います。


本当に今必要なの?


過去の物は過去。

使わないなら「さよなら」してもいい。


未来に使うかも?

未来はまだ来ていないから、

また気分は変わるかもしれないから、

そのとき買えばいい。


そんなことを考えながら処分、処分、処分。

もう一度身軽な自分に戻るというのも良いのかもしれないな・・・


そんなことを考えた1日でした。

2020年11月19日木曜日

マイケル・J・フォックスが引退表明

【 マイケル・J・フォックスが引退表明】

こんな文字がTwitter上で流れていました。


自分がマイケルJフォックスを本格的に知ることになったのは

ほとんどの方と一緒でしょうが、

「バックトゥザフューチャー」という映画です。


中学時代はどっぷりで、

学生鞄に覚えたての英語でマイケルJフォックスと書くほどw


BTF1の日本語吹き替えの映画は見過ぎて

全員のセリフを暗記し、風呂に入りながら高速で暗唱できました。


そこから外国映画にはまり、

外国の文化、そして外国人女性の美しさに惹かれていきました。


振り返るとそれが今の外国生活に繋がっているんですよね・・・

人生には無駄な出来事はない。不思議なものです。


バックトゥザフューチャーから

マイケルJフォックスが好きになり、

「摩天楼はバラ色に」「ドクハリウッド」「ファミリータイズ」

「ティーンウルフ」・・・

色々見ました。

部屋にポスターも貼っていました。


時は流れ、パーキンソン病になった姿を見て、

なんで彼が・・・と悲しく思った記憶があります。

きっと直って再び・・・と思っていましたが、

そんなに世の中甘くはなく、現実はこちらの思惑など全く関係ないもの。


治る兆しはなく、

パーキンソン病後に出版された彼の自伝も2冊も読みましたが、

なかなか厳しい状況であることが伝わってきました。


そして今日目にした引退宣言。

セリフを覚えることにも支障があるということで

仕方がないのかな・・・と思います。



【人間五十年、化天の内を比ぶれば、

夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。】


役者としての現在は滅してしまうのでしょうが、

自分も含め、皆さんの記憶の中では永遠に滅しません。


はじめはエリック氏だったのを代役で

マイケルJフォックスになったバックトゥザフューチャー。


奇跡的な配役に感謝。


そして自分の青春の記憶を色濃くしてくれたことに感謝。


まだまだバックトゥザフューチャーシリーズは見続けるので、

自分の中ではマイケルJフォックスは永遠に不滅です。


2020年11月7日土曜日

バンコク日本人学校の消しピン禁止について

 塾にいる生徒はバンコク日本人学校の子ばかりです。

小4の子が休み時間に消しピンをしていました。

消しピンという遊びは、お互い消しゴムを机の上に乗せ、

自分の消しゴムを爪ではじき、

相手の消しゴムを机から落としたら勝ちという遊び。


私が子供のころもよくやっていました。


懐かしいなぁと思ってみていると

子供がこんなことを私に話してきました。


「うちのクラス、消しピン禁止なんだ。」



もちろん、理由が気になるので

「どうして禁止なの?!」と聞いてみたところ

「消しゴムは勉強する道具で遊ぶものではないから」

と言われたそうです。


私「!?」


正直、はじまった・・・と思いました。


このようなバンコク日本人学校の若い先生がする

不可解な指導の話は相当聞いてきました。



子供の良さって何でしょうか。


色々ありますが、「想像力の豊かさ」は

大人と比べて抜群に優れています。


そして、その想像力はもっともっと伸ばしてほしい

と思うのが教師であるべきだと思います。


遊び道具でない文房具を遊び道具にする。

そしてお互いがルールを決めて、

机の上で安全に平和に遊んでいます。


これを止めて良い理由はどこにあるのでしょうか・・・


遊び道具でないと遊んではいけないのであれば、

ノートの端っこに丸バツをしてはいけないとでもいうのでしょうか。


若い先生こそ、自分が子供のころの記憶が濃いはずです。

自分が子供のころ、教師から同じことを言われたら

果たしてどう感じるのか。


消しピンを禁止にした状態。

消しピンを禁止にしない状態。


この違いで一体どれほどの教育的な効果があるのか?


そこを考えてから禁止にしてほしいです。


何でも禁止にするのは簡単です。


学校はお勉強をするだけに行くのでしょうか。

それなら塾の方が効果的に指導できています。


学校の意義はそこだけではないからこそ

学校の良さがあるのだと思います。


たかが消しピン禁止なので、そんなに語る必要はありませんが、

きっと消しピンを禁止にする考え方は、

他のことでも同じような理不尽なことを起こしているはずです。


もう自分はバンコク日本人学校の教師ではないので

どうしようもありません。


溜息が出るばかりです。

2020年11月3日火曜日

小学校の「あだ名禁止」は人を弱くする

小学校で「あだ名を禁止」にする風潮があるそうです。


そして名前も男女差を無くすという意味合いで「さん」に統一。


確かに名前に関するトラブルは減るでしょうね。


ただ、ここで感じるのは「トラブルの根っこ」は解決されていないのでは?

ということです。


名前を「さん」で呼ぼうが「くん」で呼ぼうが、

別にそれを差別と感じる必要はないはずです。



確かに体は女性として、男性として生まれていても

心は逆であるということがあります。


だからと言って、「君」「さん」で呼ばれたからといって、

呼んだ人が差別の意図があったわけではありません。


その差別を感じたとすれば、

本人の心の中に自然と芽生えたものであるはずです。


それならば、その差別心が芽生えた原因の部分に

メスを入れない限り、何の解決にもなりません。


学校での服装はどうしますかね。

体が男である子がスカートをはいてきたとき、

禁止にしますか?


整列のときはどうするのでしょう。

どっちに並ばせましょうか。


着替えのときは?


正直、どうしても無理が出てしまいます。


それなら無理があるのを承知で受け入れる社会の方が

かえって肩の力が抜けて生きやすいのではないでしょうか。


人間だれもが深く話し合うことはできないのだから、

まずは体の差で区別をしているのが社会であり、

それが良いとか悪いとかの話ではないし、差別の意図もない。

単に今はそのような社会である。

そのことを踏まえて指導する必要があると思います。



あだ名の禁止についても同じです。


あだ名を禁止にしても、変なあだ名で呼ぶ人が悪いのであり、

また、呼ばれたことに対して嫌だと言えない心にも課題があり、

変なあだ名を放置する他の人たちにも課題があり、

そのような課題と向き合うことこそ教育なんじゃないでしょうか。



面倒なことになるのが嫌だから、

とりあえず「あだ名禁止」にしているように感じます。


一見、トラブルは減りますが、何の解決にもなっていません。

トラブルを通して子供たちは生きる力を高めているのではないでしょうか。


そんなにトラブルが嫌ならどうして教師になったのでしょうか。

そもそも学校ってそのようなことを学ぶ場ではないのでしょうか。



禁止、禁止で無色透明。


色が無ければ叩かれることはありません。

色同士がぶつかることもありません。


何事も禁止、禁止、統一統一としていけば、

確かに誰もが一見、苦しまないような学校が出来上がるのかもしれません。


無色透明な学校。


でも、味気ないのではないでしょうかね。


人生は一度だけで、

あんなあだ名で呼ばれたなあ・・・とお酒を飲みながら

思い出す人生は素敵なんじゃないでしょうか。


おじいちゃん、おばあちゃんになっても

同窓会であだ名で呼び合っていたら素敵じゃないですかね。


人間なんて曖昧な存在だし、

曖昧さから学ぶことはたくさんあります。


あだ名一つとってみても、

それがトラブルになるから学びがあるんじゃないですかね。


その学びのチャンスを奪っても、

学ばなければならないことが消えたわけではないです。


必ず目を背けても向き合わなければならない時がきます。



それだったら大人の庇護のもとにある

小学校で大いにぶつかり合って学んだらいいんじゃないですかね。


あだ名禁止、戦いごっこ禁止、禁止、禁止、禁止・・・


どんどん人間が弱くなっていく気がしますね。