2019年10月30日水曜日

爆音恐怖症


高所恐怖症とか閉所恐怖症とか聞いたことありまよね?


みなさんも何か恐怖症ってありますか?


自分はあります(^^;
爆音恐怖症です!



かなり幼少期に何かの物音、隣の部屋から漏れてくるテレビの音とかが
頭の中でどんどん大きくなるような感じがして、
家の外まで聞こえるようになって、
どんどんそれが広がって・・・
というイメージがわいてとても怖くなるんです。


すぐに父親の布団に逃げ込んだ記憶があります。
すると安心感からか音が消えていくんです。



で、それから何十年も経ちますが、
いまだに爆音に対する恐怖心は残っているんですよね・・・


例えば隣の家からの音楽がうるさくて、
自分の部屋の音楽を大きくしたとしますよね。


ある一定の音を超えると、
急に怖くなるんです。
何か心臓がドキドキしてきて、
音が隣の家まで響いてしまっているような。


窓を超えて隣の建物まで響いてしまっているような・・・


そんなことが頭に浮かんできて、
もう心臓がどきどきしてしまうんですよね。


これって何なんでしょう??


多分何かのトラウマだということは
知識としては理解しているんですが、
その原因が何なのかがわからないんですよね。


すごく気になりつつも、爆音にしなければ
別に問題ないんで、特に生活に支障はきたしません。


ということで、この恐怖心が何なのかは
とりあえず心のどこかにおいておいて、
いつか原因がわかる日が来たらいいなぁ
といった程度の期待をしています。

2019年10月29日火曜日

バンコク日本人学校中学部体育祭の暑さ!

バンコク日本人学校で開催される中学部体育祭。
2019年度は11月2日の予定でしたが、
ASEAN会議の関係上で1週間前倒しで10月27日(日)となりました。


数日前からポカリスエットやら冷凍食品で弁当を準備し、
当日は朝早起きして弁当作りと忙しい朝でした。


そして朝から暑い1日を予感させる晴天。


息子を送ったあと、自分はしばし時間があったので
朝ごはんをゆっくりと食べてから出発。


予想通り!

校庭は隠れるところのない直射日光。


周囲の保護者の方は滝のような汗。
もちろんタイの暑さに慣れている自分も
徐々に汗が・・・


さすがに耐えがたい暑さでした。


演目の間には時間があるので、
休憩室として開放されている空き教室に入り、
クーラーで熱気を冷まし、再び校庭へ。


冷めた体は一瞬で沸騰して汗がにじみ出てきます。


演目がある程度終わったので、
一度家まで帰り、近くの喫茶店へ。


暑さでそっこう飲み干してしまうほどカラカラ。
今週はこの喫茶スペースに月~日までの週7で通うことになりました(^^;


暑さでやられていて昼ご飯は食欲があまりなかったので、
カップラーメンを食べてから再び学校へ。


昼も変わらぬ日差し。


保護者用のテントもあるのですが、
朝早くから来た人たちがレジャーマットを敷いて
広いスペースを占領しているので全員が利用できない状態。


中にはレジャーマットの中で寝ころがっている人も。


早く来てスペース確保したんだから
どのようにスペースを利用しようが構わないだろ?という
「情」や「思いやり」は度外視した論理でしょうね。


論理は正しくても、人として正しいかどうかは別だなぁ
と思うので、このような場合は学校側からもアナウンスをしてほしいものです。


ただ、見学スペースにテントを左右もう2個ずつ設置してくれれば、
誰もが日差しから守られて参観できると思いました。


入学金の額や学費的には十分テントは購入できるはずだと思います。


保護者はキツキツなテントの中で蒸し風呂のように見ていましたが、
すぐ隣では、管理職の方々が、椅子にゆったり腰かけて
ガラガラの広いスペースで座っているのも印象的でした。

ハロウィンも近いということで、
流行りの上級国民と平民の仮装ということで(^^;


冗談はさておき、学校の管理職だけではなく
保護者みんなが気持ちよく参観できる体育祭になるために
まだまだ考えられることは多々ありそうですよね。

2019年10月22日火曜日

天皇陛下が「天照大神」を拝礼する様子を見る日本人の心



NHKのニュースでこんな言葉がありました。


===================
天皇陛下が皇居の宮中三殿の回廊に姿を見せられました。
「天照大神」をまつる賢所(かしこどころ)に天皇陛下が拝礼し、
「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」を行うことを伝えられる
「即位礼当日賢所大前の儀」が始まりました。
===================


戦後に生まれた自分は歴史として学びはしますが、
天皇陛下については深い知識を持ち合わせているわけでもありません。


でも、尊敬できる人格を持ち合わせた方だということは
マスメディアの情報を通さずしても
表情や仕草から伝わってきます。


なので、自然とこのニュースも見ていたんですが、
このNHKの言葉を聞いていると、
日本人って深いなぁと感じるところがあります。


AI時代と言われ、
コンピューターをはじめとした
科学技術の発展の勢いがます時代において、
「天照大神」という言葉が自然とアナウンサーの口から出てくること。
さらに日本人の象徴である天皇陛下が拝礼するという事実。


このニュースを違和感なく見ていられることに対して、
日本人として自分の中にも
このような精神が受け継がれているんだなと実感しています。


霊が見えるわけでもありませんし、
何か宗教を信仰しているわけでもありません。


いたって自然に、クリスマスもやれば、
初詣にもいく一般ピーポーの自分です。



幽霊の話をしているテレビ番組を
斜に構えてみているところもあります。


そんな自分でも、天照大神という言葉を自然と受け入れています。

「アイフォン、人工知能、シリコンバレー、
 科学技術は日進月歩。
 ユニクロウェアはらくでリーズナブル。
 こんなごわごわした動きづらそうな服着て
 なんちゃら神に拝礼って・・・
 ちょいちょいちょい!アナウンサー、そこスルーする?!
 誰も突っ込まないの?」


なんてことは全く思いません!
思ってもおかしくは無いほど進んだ時代ですよね?
文明的、科学的、論理的には。


でも、そんなこと全く考えず、
あの服装による儀式をすんなり受け入れることができるし、
なぜか必要な儀式なんだということを知識ではなく、
深い部分で知っているようなところに
日本人としてのアイデンティティを強く感じるのです。
精神的に。


みなさんはどうですか?
違和感なく見ていられますよね?


グローバルスタンダードが良しとされ、
どんどん標準化される科学技術全盛の世の中であっても、
みなさんの心の中にも日本人としての精神性が
深く刻まれているということなんでしょうね。

2019年10月18日金曜日

人的騒音のイライラを解消する考え方

自分の家の正面からいつも子供の雄たけびが聞こえる。


仕事で集中していると、
若干イラっとしてしまうレベルで雄たけびをあげるときがあるんですよね。
ある程度は耐えるけど、
さすがにその頻度はやめてくれ!というときも。



でも、イライラしても仕方がないので、
自分の中では「サルを飼っている」ということで
腹落ちさせてイライラを防いでいました。




でも、サルを飼っているというのは
どうも道徳的にはよくないよな・・・と思うところもあります。
別に誰にも言っていないことなんですけどね。
自分の中で悪いことを考えている気がするんです(^^;
でも、仕方がないのでサルということで片づけていました。



が、最近、ふとよいことを思いつきました!



その子は
「ハリウッドザコシショウ」を目指している!




そして家族も全員でそれを応援しているんだ。


まさに英才教育


驚くほど意識の高い家庭なんだ。



こんな若くしてここまでストイックに目指し、
日夜鍛錬の日々。


千日をもって鍛。
万日をもって錬。


まさに現代の宮本武蔵。


このようなバンコクの片隅から、
将来のエンターテナーは生まれる!


彼も雄たけびをあげて、今頑張っている。
俺も負けてはいられない!
もっと頑張ろう!


くっ、また叫んでる。すごい練習量。
負けられない戦いがここにある。
頑張れニッポン。


廊下で出会ったら固く握手して、
応援していると伝えようか。
ガンバる人を応援する。缶コーヒー。ジョージア



ジムキャリーなんてお笑い芸人から
ハリウッドスターになっています。


ハリウッドスターのアーノルド・シュワルツェネッガーは
カルフォルニア州知事にまで。


アメリカの大統領のロナルドレーガンも俳優でした。



今雄たけびをあげる彼も、もしかしたら・・・


・・・。


そう思うようにしますw



不思議とイライラが減るんですよね(^^;



もし皆さんの周りにも騒音関係でイライラされている方がいたら、
ちょっぴりこんな考え方いかがですか?
イライラ減りますよw

2019年10月17日木曜日

今を見て生きる。


頭の中がごちゃごちゃしていて、
「あれもしたいこれもしたい、もっとしたいもっともっとしたい」
                     Byブルーハーツ

そんな状態。


未来のことを考えて不安になったり、
過去のことを考えてイライラしたり、
どうも前と後ろを行ったり来たり。


でも、ふと街なかで今日の木々の緑が濃いなぁ
と自然に目をやったとき、
そんなごちゃごちゃを忘れているときがあります。




この瞬間って、実はとっても素敵なんじゃないかな?
ふと、忙しい頭の片隅でそんなことが
自己主張してきます。


もちろん、社会で生活していたら、
そんなことばかりは言ってられないこともありますが(^^;


ただ、ちょっとだけ「今」の周囲にあることだったり、
「気持ち」だったりに目を向けてみると、
何だか1日が濃くなるのかな・・・


悩みごとがあるときに、
昨夜の夕食何食べたっけ??といったように
心ここにあらずということってありますよね。


せっかくのご飯なのに、
意識散漫な状態で食べるなんてばち当たり。


一生で食べられる夕食の回数は365回×40
くらいかな。
大切にしないと。


少しでもよいから
今に心の足をしっかりおいて生きていけたらな
なんて考えた日でした。

我慢強さがマイナスに働くとき



自分が物申せる立場であるかは別として、
今のところ自分の生き方の中である程度よかったかな?
と思えることがあります。



それは、我慢強くなかったことです。



我慢強くないというのは悪い響きがありますよね。
ただ、この言葉に悪い響きがあるのは、
自分たちが過去にされてきた教育の影響でもあります。


教育といっても学校という狭い範囲でなくて、
スポーツ、学問、社会全体で見聞きすること、
それらすべてにうっすらと共通しているのが
我慢を美徳とする考え方です。



耐えた先には花がある。



そんな言葉で我慢の価値を過大評価しすぎてしまっているのかな
って気がするんです。


思考でごにょごにょ考えると、
この価値観にのっとった答えになるので、
今やっているところで我慢して頑張れ!という答えになりがち。


でも、本能というか、自分の感情の声にも
もっと耳を傾けてあげてもよいのかな?って思うのです。


どうしたらその本能というか直感がわかるのか?
これは難しいですよね。
私もわからないです(^^;



「心がワクワクするような道か?」
という問いかけはどうですかね?



一生は一度だけしかないのですが、
その今歩いている道は
一生に一度の道として「心が晴れた道」なのか?



そんな表現なら伝わるでしょうか。



もちろん、成長に関して苦しみが伴っているのは
別に悪いことではないし、我慢も必要です。



ただ、その我慢の質が違うというか、
すがすがしい我慢なのか、
ねっとりした嫌な雰囲気の我慢なのか。



そればかりは私にはわからないので
ご自身の気持ちがわかっていることなんでしょう。



でも、これがわかったところで、
思考は昔の価値観で作られているので、
やはり我慢して頑張るということを選ぶ人は多いのでしょう。




今間違った道を進んでいる人が
その道で歯を食いしばってダッシュをすれば、
確かに脚力はつくのでしょう。



が、行先が間違っていたら、
いつか取り返しのつかない距離を進んだのち、
途方に暮れる時がくるはずです。



でも、今更引き返すことも厳しいから、
その場所で何か自分を正当化する理由を考えることでしょう。
心の奥底では間違っていることがわかっていても。



何が正解かなんてわかりませんが、
自分が死ぬ間際にやり切ったと
すがすがしく思えるならそれでいいんだと思います。



どうしてあのとき・・・


となってしまいそうなら、
いくつになっても、我慢強さを捨てて、
新たにチャレンジすることは悪いことではないと思います。



ふと、そんなことを考えた朝でした。

腰痛になってわかる健康体の「有り難し」


みなさんお元気ですか??


私は腰をやってしまいました・・・


学生のころに腰を痛めてから、定期的に腰が爆発してしまうんです。


何か日本庭園にある「鹿威し」みたいな感じで、
どんなに態勢を気を付けていても、
腰にジョジョに負担が溜まってしまうんでしょうね。


基準を超えると・・・
「カーン」と鹿威しが鳴るがごとく、
腰が「カーン」ではなく「ピキーン」と・・・


ここ1週間前から腰に違和感をおぼえていて、
鹿威しに水が溜まっている予感はしていたんですよね。


が、小2の娘から肩車を頼まれまして。
娘に頼まれたら断れないのが父親のサガ。


肩車をして立ち上がったときに、
再び「ピきん」と。
確かにやつは来ました。


春の訪れのように陽気なものではなく、
まさに嵐の到来。


そしてここ数日は歩き方も
スターウォーズの金色のロボットみたいな感じです。
C3POでしたっけ?


1年に1回と半年に1回の間くらいの頻度でやってくる腰痛のおかげで、
健康体のありがたみを感じています。


日頃は意識しないで使っているからだですが、
腰痛のおかげで微妙な腰の変化には敏感になっています。


1週間前に当たり前に重いものをもっていた自分が懐かしいです。
今は白鳥麗子でございます的に軽いものしか持てない中年男性。



完全に回復したら、絶対に腰の筋トレをしようと
今更ながらに考えています。


腕立てくらいはやっていたんですが、
腰の運動は全くやっていなかったんですよね。
腰痛で定期的に苦しんでいるくせに(^^;


多分昨日あたりが腰痛のピークだったと思います。
あとは徐々に下山するように痛みは引いていくことでしょう。
まだC3POの物まね状態ですが。。。


健康体の有難みを教えてくれて
腰痛よ、ありがとう!!


なんて怪しいポジティブ人間ではないので、
そんなことは言いません。



みなさんも体が悪くなる前にメンテナンスをしてくださいね。
当たり前にある健康は「有り難し」です。


メンテナンスを怠っていた自分が言うのもおこがましいですが(^^;

2019年10月14日月曜日

息を深く吸えない都市バンコク

セントラルワールド前を歩いていてふと
バンコクの渋滞風景

呼吸が浅くなっている自分に気づきました。


排気ガスの臭いがきつくて、深呼吸なんてできないので
当然と言えば当然ですよね。


でも、これが当然だと思えてしまう地球の環境は
当然であってはいけないと改めて感じます。


自分も車に乗るし、バイクにも乗ります。


だから、この排気ガスを前にして深い呼吸ができないことに
不平不満を言う資格なんてないとわかっています。


自分で天につばを吐いて、
自分にかかってきているという状態(^^;


日常生活を振り返ってみると、
呼吸が浅いことが多いなと改めて実感しています。


バンコクで暮らしていると、どこにいても
深く呼吸をできる場所は皆無と言ってよいでしょう・・・


息をしなければ生きることができない人間にとって
これほど致命的なことってないと思います。


水も同じです。
お金を出して買った水しか飲めない環境。
水は自然にあるものなのに・・・


濾過した汚れは一体とこに行くんでしょうね。
宇宙に飛ばすわけでもないので
地球のどこかに汚れは溜まっているのでしょう。
埋めたり燃やして粉上になって、
また雨で降り注いでいたりして。


生きるため都会を選んでいますが、
こんな呼吸を一生続けていきたいとは思えませんし、
お金を出して水を買う生活も違和感があります。


老後は自然の多いところで暮らしたいな。
自由に空気を吸い、自由に水を飲める場所で。


と言いつつも、空気汚染マップを見ると、
バンコク郊外も汚染度が高いなんてこともあります(^^;
どこもかしこも、どんどん汚染されていて、
そんな生活は無理なのかな・・・
今改めて考える日々です。

2019年10月11日金曜日

人間は慣れるからこそ気を付けないと


台風19号が近づいていますね。

今日のバンコクは晴天です。


どうも今回の台風のレベルは今までとはわけが違いそうです。


ただ、日本の知人に聞いてみると、
ニュースでは騒いではいるけど、
周囲の人たちはそこまで気にしていない人も多いみたい。



それを聞いて思ったことは、
人間は慣れる生き物だなということです。



これって良い意味で働けば、
つらい状況になったときでも過去の記憶をもとに、
この程度だろうと精神的なダメージを受けずにやり過ごすことができます。


ただ、未知のことに関しても、
過去の知識をもとにして予想してしまうことで
想定外には弱くなってしまう気がします。


今回の台風はもしかしたら、
想定外の可能性だってありますよね。


なんだか昭和に1200人以上の死傷者を出した台風と同規模だとか。

アメリカのハリケーンの最大級の数値5を超える6規模だとか。

今年最強だとか。


いろいろ不安に煽るような情報がありますね。
れて過剰に反応する必要はないと思うのですが、
やはり備えは必要かなと。


例えば、窓ガラスが飛ばされた障害物によって割れる
ということは実際にたくさん起きている事例です。


関東に住む人は窓にガムテを貼っておくなどの対処は
通過する1日くらいはしておいてもよいのかなって思います。
別に飛んでこなくてもはがせばいいだけで、
そんな面倒なことじゃないですからね。


想定外のとき、人はもろいところがありますからね。
気を付けてくださいね!

2019年10月10日木曜日

兵庫県東須磨小の教師いじめについて元小学校教師の見解



兵庫県東須磨小で行われていた教師による同僚いじめが
連日ニュースになっていますね。



みなさんにとっては
どんなニュースにうつりましたか?



元小学校教師としての個人的な見解を述べますね。
まったくのフィクション。
想像の話なんで信じないでくださいね!



まず、女性の校長ですが、
被害者の先生より加害者の先生たちとの方が
コミュニケーションが密にとれていたのではないか?
そう考えています。


学校は飲み会が多い現場。


そのとき、校長と話す機会は多いんですが、
いじめられる側の教師よりも、
いじめる側の教師たちの方が、
性格的に積極的であると予想できます。

校長に笑顔でお酒を注いだり、
話しかける機会が多かったことが想像できます。


良くも悪くも信頼関係が築けていたのではないでしょうか。


また、被害者側の教師ですが、
この年齢になっていじめられるという事実から
性格的に少し弱いところがあるのかもしれません。


日頃からおとなしく、
他の教諭とのコミュニケーションが苦手で、
その部分に関して校長が好印象ではなかったという可能性もあります。


また性格的な積極性から加害者側の教師の方が、
校務についてもアクティブな仕事ぶりだったのではないでしょうか。


積極的に声をあげて仕事をしているのが加害者側で、
被害者側は受け身の仕事をしていた可能性もあります。



いじめの相談を受けたとき、
校長はいじめられた被害者の先生に対しては、
すでにマイナスの人事評価をもっている状態だった。


そのマイナス評価をもっている心象が絡み、
いじめの事実を客観的ではなく、
主観的に、若干私情を入れた対応をしてしまったのではないか?
と予想しています。



私情を入れた対応とは、
加害者側の教師には
公私ともに友好的な関係が築けていたために、
厳重注意はしづらい状況があり、
口頭による軽い注意のみ。

注意というか、むしろ仲間に対するアドバイス的なイメージで
話して終わらせていたのではないでしょうか。


その軽い対応が教師のいじめを加速させ、
歯止めがきかなくなり、
SNSのおかげで明るみになった。


もし、SNSがない時代だったら、
このいじめは継続されていて、
加害者側の教師が退職していたという可能性も
十分にありえますし、年齢的に退職という選択は選びづらく、
もっとひどい結果になっていた可能性もあります。


もしくは、校長は初めから加害者側の教師たちに対して
好印象をもっていなかった。
しかし、立場的に加害者たちの方が古株でもあり、
横のつながりが強くできていた。


そのため、校長から教師へ指導できる関係が構築できていなかった。
また、構築することにどこか心理的に遠慮してしまっていた。


その遠慮がいじめを加速させてしまっていた。



これはあくまで推測です。
まったくの想像なので、事実と異なる可能性は大いにあります。


校長は二度と自分の学校では指導させないという
処置をしているそうです。


私は東須磨小学校だけでなく、
全国の小学校で勤務できないようにすべきレベルだと思います。


教員免許ははく奪し、教師という職業には一生戻れないように
対処する必要があります。
教師は未来の人間に強い影響を与える重要な仕事だからです。


ただ、この加害者も時期は違えど被害者だったのでしょうね。
何かしらの被害があり、心に鬱屈したやり場のない怒りのようなものが
溜まっていて、
それの吐き出し口がいじめだったのかもしれません・・・



それに校長について述べたんですが、
私の個人的な見解では、同じ職員室にいた誰もが
この事実を知っていたと思いますよ。


現場を直視していなくても
彼らの周りに漂う嫌な空気感で気づいていたはずです。


それを見て見ぬふりをしてしまう環境にも
問題はあります。
これは兵庫県東須磨小だけの問題ではなくて、
どの職員室でも起こりうることだと思います。



みなさんはどう考えますか?

2019年10月9日水曜日

表現の不自由展「子供に胸をはって見せられる?」

表現の不自由展についてちょっとだけ言いたいことがあります。


別に自分は強い思想をもっているわけではありませんが、
日本人として生まれたからか、
日本のことは好きです。


課題はもちろんたくさん見えてきますが、
基本的に日本が好きであるということを前提に話します。


まず、歴史の真実とは異なる、
もしくは資料的に真実と断定できない
従軍慰安婦の像を展示していることに
とても違和感をおぼえます。


別に像を設置したければすればいいんですが、
それは自分の国でやればよくて、
芸術展示品として日本に展示することはふさわしくないと思います。


また、昭和天皇の写真を燃やすという展示もあることを
ネットの動画で見ました。


嫌悪感しかありません。


私は日本は好きなんですが、
昭和天皇に対して強い思い入れはありません。


ただ、戦争で降伏する際、
自分の保身を考えず、自らの命と引き換えにしても
国民を守ってほしいという願いを
アメリカに伝えたということについては知っています。


アメリカ側の動画でも見ましたし、
日本の歴史について語る本などでも読みましたので、
真実の出来事である可能性は高いと思います。


そのことについて真実であれば、
感謝こそすれ、批判したいとは思えません。


しかし、ここで言いたいことは、
そんなことよりもっと根源的なことなんです。


私は生きている人であれ、
死んだ人であれ、
写真を燃やす行為については嫌悪感をおぼるのです。


理由はいたってシンプル。


自分がやられたら嫌だからです。


自分がやられて気分が良くない行為を
この世にいない人だからといって
やってよいとは思えないのです。


人の写真を燃やす行為は芸術とは思えません。
表現の自由を認めてよいとも思えません。


悪いものは悪い。


政治的云々とかは別として、
人間としてシンプルに悪いことだと思います。


子供に胸を張って見せられない行為は悪い行為だと思います。
深く考えなくてもわかることです。
直感でわかることです。


変に思考でこねくり回すからイデオロギーが加わって、
良いだの悪いだの自由だの不自由だのという話が
生まれてくるんだと思います。


いやいや、それ以前の問題で、
人間として悪いことは悪い。



そんなシンプルなことが判断できない倫理観のレベルである人が
多くいることを悲しく感じています。


人として間違っている行為のか?
人として正しい行為なのか?


胸に手をあてて考えたら
自然とわかるんじゃあいかな・・・

2019年10月8日火曜日

バンコク日本人学校の授業参観で見えた先生の課題

バンコク日本人学校の中学部の授業参観に行きました。

中学1年生の理科の授業。


ちょっとがっかりかな・・・。
同時に「どしてだろう?」という疑問も。


新卒の先生は指導的に課題はあるのは当然で、
徐々に成長してくれたらよいと思いますし、
周囲も温かい目で見守ってあげる必要もあると思います。


でも、もう半年過ぎた10月です。
基本的なことは誰か教えてあげているのだろうか?
そんな疑問が浮かんでくる授業でした。



ワインを蒸留してアルコールを集める授業。


チャッカマンをもって違う班に歩き回って火をつける男の子。
他の班に歩き回っているのを目視しているのに
注意しない場面も多々ありました。


ちょっと子供に気後れしているというか、
遠慮しているような感じを受けました。


火をつける指示がないのに勝手につける子も。


立ち歩いて実験器具があるのに
肩でお互いを押し合ってふざける子。


プロレスのショルダータックルみたいなことをし合っていました。
でも、気づかないのか、特に注意せず。
気づかないレベルではないと思いますが・・・。


ガスバーナーに火をつけるときに
上からのぞき込むようにしている子も。
万が一大きな火が出たら本当に危ないことです。


管理職もちょっと見学に来ていました。
試験管を落として割った子がいて、
その掃除を手伝ってすぐに出ていってしまいました。


校長は1つの班の実験をのぞき込んで
すぐに出ていってしまいました。


授業の様子を1、2分見ていれば、
荒れている雰囲気はわかるはずなのに・・・。


自分が教師をしていたときは、
子供の顔や仕草を見ていたら、
荒れているかどうかくらいわかりました。
空気感で。


教室に入らなくてもドア付近で覗いただけでも
ある程度は察することができます。


これはセンスの部分もあるでしょうが、
あとから鍛えられる感覚だと思います。
でも個人差はあることなので何とも言い難いです。


ただ、気づいてあげて、
あとで指導してあげた方が新卒の先生にとっては
絶対に良いはずです。



「集まったアルコールは最後に火をつけます。」
「フラスコに残ったワインも最後は火をつけていいよ。」との指示。


「片づけるのが面倒だからでしょ?」
と子供に突っ込まれて、先生が苦笑いしている場面。


私は中学の理科の実験指導はしたことがありませんが、
でも自分なりに考えてみていました。


アルコールと水は沸騰の温度差によって分離されるので
蒸留して集めたアルコールが火がつく。


フラスコに残っていたワインはアルコール分が抜けていることと、
そもそも不純物が多いので火がつかない。


そこで蒸留に関する知識が深まるのかな・・・と。


でも、先生は温度など気にせず最後までぐつぐつ沸騰させていました。
火がつかない班もありましたが、
もしかしたら水分も蒸発してアルコールが薄まってしまったのかな?
沸騰中に温度をチェックする指示は先生からありませんでした。


ただ、もしかしたら、
何本か試験管に蒸留したアルコールを集めていたので、
徐々に燃えにくくなっていることを確かめたいのであればOKだと思います。


ただ、子供たちは試験管を順番に並べてはいませんでしたし、
その指示はなかったので、バラバラになっていると思います。


細かいことは別としてもっと基本的なことに課題があると感じました。


チャッカマンは必要な時以外は持ってはいけない。
それを徹底しないと危険です。


火はガスバーナーに火をつける時以外
勝手にチャッカマンに火をつけてはいけないのも基本。


銃みたいにして友達に向けている子もいれば、
ずっと手にもってくるくる回転させている子も。


正直、歩いて注意しに行こうかと思いました。


いくら中学生とはいえ、
ガスバーナーを付ける作業は一斉に同時にやった方がいいかな・・・。
もちろん、作業に習熟しているならバラバラでもいいと思います。


でも、見ている限り、
指示がないうちに元栓を先に開いて、
ガスバーナーの調節ねじを回して、
火をつけたらかなり大きな炎になっている班も。


大きな火にならなくても
のぞき込むような姿勢で火をつけている子もいました。


火が先。調節ねじが後。
できないレベルなら全員で一斉にやらないと。
ケガがないのが不幸中の幸い。


教室がぐちゃぐちゃしちゃったら、
一回すべての作業を止めて、
席に座らせて落ち着かせる勇気も必要です。


そして気づいた禁止事項は
すぐに全体で共有していかないと危ないです。


現場から離れていた自分が数十分見ても
色々気づくことがありました。
誰かもっと見てあげて指導してあげないと
ちょっとまずいかな。。。


せっかく全国からいろいろな先生が集まっている環境なんだから
もったいないと思います。


別に理不尽に批判したいわけではないんです。
でもクレーマー的になっちゃっていますかね(^^;


言い訳がましいですがクレームを言いたいわけじゃなくて、
子供たちにとっては貴重な一生に一度の1年間です。


塾に行っている子は塾で習うから別に構わないのでしょうが、
塾に行かない子にとっては学校の授業がすべて。
ここで習ったことが本来すべてなはず。
充実した実験ができるのも学校の良さです。
そのことを思うと・・・。


バンコク日本人学校は自分がいた学校。
期待している思いがあるから
がっかりするのかもしれません・・・


日本の教育を受けられる学校は1校のみ。
競争原理が働きづらい環境だからこそ、
自ら高めていかないといけないのかな。


もし関係者の方が読んでいて気分を害したのであれば
すみませんm(__)m

内部にいると忖度して言えないことってあると思うんですよね。
部外者だからこそ言えることってあると思って書きました。

2019年10月5日土曜日

バンコク日本人学校で間違った指導?!


塾で中1に数学の比例のグラフの書き方を教えていたところ、
悲しい話を聞いてしまいました。


正直、力が抜けるというか、溜息が出るというか・・・
がっかりというか・・・


簡単に説明しますね。


y=3/2(さんぶんのに)Xのグラフを描く問題です。


数学が苦手だった人もちょっとだけお付き合いくださいm(__)m


普通、比例のグラフは原点(グラフの中心)を通るので、
あともう1つの点が決まれば直線は引けます。


で、分母が2なんで、Xに2を代入すれば、
約分でyが3になります。

     
     x y
なので、(2,3)の点を打てば、
原点と結んでグラフ完了です。


別にxは2でなくてもよくて、
2の倍数なら分母が約分で消えるのでOKです。


とってもシンプルです。


なのに、バンコク日本人学校の数学の先生が
子供に次のように教えていたとの声が。


異なるクラスの子2人が、
同じ大卒の若い数学の先生に教えてもらっていて、
2人の意見が共通していたので、
きっとかなり正しい情報だと思われます。


その先生曰く、
分数はわかりづらいから、
3÷2をして分数を1.5に直すらしいです・・・


するとy=1.5xになります。


まぁ、ここまでは無駄足ですが、
数学的にはOKです。


で、次が問題です!


xに1を代入して、yが1.5になると・・・


だから(1、1.5)の点をグラフに打つそうです。


グラフのメモリって1ずつですよ!


1.5って・・・


子供に聞くと、マスの間に点を打つようにと。


そんなの適当すぎます・・・


そこがマス目の間なんて
正確にわからないのでは?と聞けば、
子供たちも先生に同じようなことを聞いたらしいです。


で、定規で測れと言われたそうです。


そんなのコピーの縮尺によっては、
定規の1mmからちょっとずれる場合もありますよね(^^;?


適当過ぎます・・・


xに2や4、10を入れて、yを整数にするならわかりますよ。


それが1って・・・
悲しいというか、情けないというか・・・


こんな指導が密室の中で行われているから怖いです。


間違った指導をされていても、
これでは親は気づけないです。
誰も助けられない。


塾に行っていない子は、
このままこれで終わりなんです。
間違って覚えてしまいます。


というか、グラフの書き方でこのレベルだとすれば、
今まで文字式、方程式などの指導方法も怪しく思えてきます。



こんなマイナスなことは書きたくないんですが、
教師という仕事が好きなだけに
正直見逃せない問題です。


あまりにも残念すぎ、
悶々としてしまいました。


先生が大卒ですぐだからと言って許されるレベルを超えています。
初歩過ぎます。
採用基準そのものが問われます・・・。



とりあえず、次の数学で
y=4/3x はどうやったらよいのか?
と質問するように伝えました。


4÷3は割り切れないですからね。


そこでようやく自分のミスに気付いてくれると思います。


はぁ・・・
溜息しかでません。

2019年10月3日木曜日

日本人はルールに従順だが・・・


自分も日本人なんですが、
ちょっと自分のことは置いて。


日本人はルールを守る素晴らしい国民だ。


こんなことを聞いたことありませんか?



災害があったときにしっかりと並ぶ人々。


これは美談で耳にしたことがある人が多いんじゃないですかね。



私も日本人がルールを守る国民だということは賛成で、
例外をあげれば、もちろん変な人もいますが、
おおむねルールは順守する人が多いことは事実だと思います。


ただ、最近疑問に思う場面に出くわしました。



学校関連で疑問に思うルールがあったのです。



私は純粋に疑問だったので、
グループのトップの人に疑問点を質問してみたんです。


すると返ってきた答えは
「疑問はあるかと思いますが、
 私からはお答えできることはありません。」
とのこと。


ちょっと違うリアクションを期待していただけに
拍子抜けしましたが、
日本人が集まるグループでは、
だいたいこのようなリアクションが普通なんだと思います。


実りある会話ができないことは若干残念ではありますが、
そんな感じで妙に納得してしまう自分もいました。


ルールに従うことはとっても素晴らしいことだと思いますが、
そのルールに関して疑問をもつことも
同じくらい大切なことだと思います。


日本人はルールにしっかり従う国民だということは
世界に誇れる素晴らしいことだと思います。


でも、裏側には思考停止で従ってしまいかねない
ちょっと危うい国民性もあるのかなと思います。


ひとりひとりがしっかり考える習慣をもつだけで、
ルールはもっとよりよいものになっていくはず。


自分も日本人ではありますが、
そのような右へ倣え的なことが嫌で、
組織から出たようなところもあります。


自分は自分、他人は他人。
関係ないことですが、
どうも教育者の血が騒ぐというか、
疑問を投げかけて、相手に考えるきっかけを与えたい気持ちが。


でも、暖簾に腕押し状態のリアクションがかえってくると、
どこか溜息が出るようなむなしい気持ちになるものです。


久しぶりに日本人社会の嫌な部分に接した気分です。
日本人の良さも悪さも表裏一体ですね。

2019年10月1日火曜日

整理整頓が苦手な原因は心にある


子供に整理整頓をしなさい!というレベルまでは
どうにか整理整頓できているかな?
という思いはあります。


でも、自分を振り返ってみると、
昔から整理整頓には難あり・・・といった気がしますし、
今も状態には満足していません(^^;


満足していないなら
整理整頓すればいいじゃないか?


・・・。


解決ですね。



そんな簡単なことではなくて、
結局、ちょっと難ありかな?
といったレベルに徐々に戻ってくるから不思議です。



これは今の机の右側三分の一くらいのスペースの状態です。

まず本類。
子どもが危ない!」というのは、
つい2日前に古本屋でタイトルが目に留まって買ってみましたが
まだ読んでいません。

下世話の作法」というビートたけしさんの本も
途中まで読んでいたんですが、
ちょっと内容が今の自分が欲している情報とは違っていたので
ラスト三分の1くらいでストップしています。


で、ほかの本はすでに読み終わっていたんですが、
ちょっと疲れているときに再読しようとしてもってきました。
再読の方がはじめて読むより気軽です。


が、再読が終わらないうちに
再び他の本も再読したくなって・・・
といった感じでたまってきつつあります。


タイ語の勉強もぼちぼちです。


書類はそこまで溜まっていませんが、
徐々にいやな感じになってきました(^^;


考えてみると、
自分の思考に課題があることが少しずつわかってきました。



あれもこれもと好奇心が旺盛。よく言えばです(^^;


悪く言うと、心が定まっていないですね。


自分にとって今何が大切なことなのか。
それがうつろいやすいということは
心が定まっていないということです。


心の定まり場所を模索しているとも言えます。


ただ、最近、特に1週間くらいで心境の変化もありました。


自分が目指すべき道が見えてきた気がしています。


40歳を超えた自分の知人たちは、
もうすでに人生の道は決まっていて、
その道を歩んでいます。


それと比べたら
今更道が定まってきたなんていうのは、
ずいぶんときままなものです。



悪く言えば子供っぽいと言えますし、
良く言えば自由です。



ただ、人と比べて生き方が正解だとか失敗だとかはないとは思うので、
自分はこの生き方をしていくのみです。
一度しかない人生なので自由に生きたいと考えています。



整理整頓が課題ではありますが、
自分の方向性が定まってきたら、
それに必要なものが残り、
不必要なものは減っていくでしょう。


本当にそうなるかは、
今後の経過をまた気が向いたら報告しますね。


PS:この記事を書いた直後に机の上の本は片づけました。