2019年7月20日土曜日

仏の顔も三度まで・・・宮迫博之さんと田村亮さんの会見を見て


宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見を見ました。

宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見

見ていて心が苦しくなってきます。


ネットの生放送でも会見を少し見ていたのですが、
コメント欄には宮迫博之さんが演技していると揶揄する声が
多数あがっていました。


私が見る限りでは演技には見えず、
本音で語っているように見えました。


これが演技で再び嘘をついているのだとすれば、
私の見る目がないということになるでしょう・・・


田村亮さんは頭に円形脱毛症のような跡もあり、
宮迫博之さんの目の下のクマは尋常ではありませんでした。


二人ともかなり悩みぬいての本音だったかと思います。


何が正しいか間違っているか。
思うことはありますが、ここでは述べません。


ただ、見ていて感じたことがあります。


日本には
「仏の顔も三度まで」
という素敵な言葉があります。


良い悪いというのは、
本当のところ見る立場、条件によってさまざまに変わります。


確かに悪いけど、実は知らずに・・・
でも、悪いことは悪い。
が、知らなかったんだったら・・・
謝りたいけど謝れない状況・・・


あいまいなところって人間が生きていれば
少なからずあるんだと思います。


私だって、もし同じ立場で
写真を撮ってくださいと言われたら
応じてしまいそうです。


反社会かの確認が難しいときって
あるんだと思います。


闇営業というか直営業というものも、
暗黙の了解で普通に行われる土壌だったとき、
自分も同じようにやってしまいそうです。
それくらい日常茶飯事に行われていることなんでしょう。


良い悪いは別として、
人間として生きていると
どうしても間違った道を、
歩道と車道の境の線を踏むように歩くことって
あるんだって思います。


そんなときのために
曖昧を大事にする日本の言葉として
「仏の顔も三度まで」という言葉があるのではないでしょうか。


わかっているよな!
今回だけだぞ!
というような、厳しいけど愛情のある叱り。


っつたくお前ってやつは!
二度とやるなよ!次は許さんぞ!わかったか!
というような・・・


でも、今回の会見を見ていると、
仏の顔も三度までという回数を数える以前の
仏の顔すら出てこなかったような気がします・・・


始めから鬼だらけのような。


もちろん、反社会勢力とのつながりが
知らなかったとはいえあったという事実。


これは悪いですが、
2人の本音の会見を聞いている限りでは
知らずに行ってしまったこと、
はじめは軽い気持ちで嘘をついてしまったが、
今では十分に重さを理解して反省しているという事実。


仏の顔が出てきても・・・
なんて考えてしまうのは甘いのでしょうか・・・


自分が小学校の先生だったんで、
こんな場面とかぶるような気がしました。


隣の席の子のシャーペンがかっこいいからちょっと奪ってしまった。


返そうと思ったけど、
授業がスタートしてしまった。


その授業中にシャーペンが無いことに気づいた子が大騒ぎ。

言い出せない間にどんどんことが大きく。


休み時間に先生に正直に謝ったら、
ぼこぼこに責められて、学校を退学処分になってしまった。


もちろんこれとは全く違うんですが、
それくらいの起こした問題の大きさと、
処分の大きさが違うという感じに見えたんです。


本人がすごく反省しているのに、
学校をあげて退学にするほど追い詰めるほどの指導をする。
そんなことはあってはいけないって思います。


会見を見ていて、
すごい窮屈な圧迫感というか、
胸が締め付けられるような思いがしました。


どんなに有名な方でも、
大きな組織の前では無力なのかなという思いもしますし、
でもこうやって公表することで
何かしらの動きが生まれるのであれば、
個人の力が高まってきている証拠にもなるかもしれません。


宮迫博之さんと田村亮さんのこれから次第ですね・・・

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