2021年10月10日日曜日

紀里谷和明さんの名言

私は紀里谷和明さんを人間として尊敬しています。


自分の心に100%限りなく近い、

ぴったりとすき間が無い生き方をしていると感じるからです。


もちろん書籍も買って読みました。

地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語


紀里谷和明さんは時々Twitterで質問を受け付けて応えています。

それを読んでいると自分の心が解放されるようなことがあり、

楽しみにしています。


でも、2020年4月以前の過去のtweetが消えてしまっていて、

読み返せないのが残念だと思っていました。

もしかしたら、今のtweetもいずれ消えてしまうかもしれない!

再読できなくなるなら忘備録を作っておこうと思って書いています。


自分用なので、読みにくいと思いますがご了承ください。



君は生きていて、たぶん健康で、たぶん今日食べるものがあって、寝るとこがあって、たぶん数名の友達がいて。100年前の人達からしたら夢のような生活をしてる。まずそこから考え始めないと、「不足」の無限ループにはまっちゃう。



戦国時代、手柄を立てた武将に褒美として与えられる土地がなくなってきた織田信長が使ったのは茶器だったといわれている。その茶器がどれだけ特別で希少なのかと信じこまされた武将達は、喜んで受け取った茶器(焼いた土)を守るために自分の命ばかりか家臣や民衆の命まで犠牲にしたという。

有限な資源に対して無限の成長を考えると、洗脳による実態のない価値の創出をするしかないということをずっと昔からやってるわけです。



ここ数年で、紀里谷さんご自身の一番大きな変化はなんですか?

という質問に対し、

無条件の幸福を実感できたことだと思うよ。



歳を重ね、社会を知れば知るほど、その社会を構成する人間が二種類に見えてくる。洗脳する側と洗脳される側。このどちらにも属さないように生きるのがなんと難しく孤独なことか。



システムという檻の外にしか生はない。



最近自分で作った格言

「幸せになったら幸せ」



日本人が多用する言葉の意味を考えてみた


「じこまん」=自分に満足してはいけない

「リア充」=充実した生活をおくってはいけない

「意識高い」=周りと同じく低俗でなければならない

「中二病」=純粋であってはいけない

「自信過剰」=自信を持ってはいけない

「ビッグマウス」=夢を語ってはいけない


これらはほんの一部の例ですが、こういう言葉が悪気もなく普通に使われ、社会に浸透しているのです。

僕には「みんなで卑屈になって暗い未来を迎えよう!」と言ってるように聞こえます。


こんなんで幸せになれるわけないと思いませんか?そもそも「幸せになってはいけない」と人々がお互いに働きかけているようなものです。


この手の言葉を使うことをやめるだけで、日本は大きく変わると思いませんか?


世界を変えるのは法ではなく風潮。


風潮は自分達で変えられる。



その舞台に出てる人間は面白いと思うから出てるんでしょ? それをあなたの趣味まで加味しなければいけないんですか? 理解できなくて嫌だったら途中で帰ればいい。とにかく言いたいことは、クレームをつける人間の事ばかり考えてたら何も作れないし、できないということ。



「自己満足」は嫌われる。何かというと「それってジコマンじゃん」と人は言う。 じゃあなんだったら自己満足じゃないのだろうか?「多くの笑顔を届けたい」も「未来の子供たちのために」も結局はジコマン。

そこで自己満足の反対の言葉を考えました。


「義務」


なんか寂しい風が吹きませんか?




何度も言うけど、好き嫌いはしょうがない。でも、そういう奴らのちっぽけな虚栄心を満たす為のマウント取り発言が、どれだけの作り手を苦しめていることか。それで自殺した人間が何人いることか。それをわかって欲しい。これは俺だけの問題じゃないんです。だから放っておけない。



コメントありがとう。

作品に良いも悪いもない。あるのは好きか嫌いかだけ。それは完全に観客それぞれに委ねられていて、大いに好きになって大いに嫌いになってください。でも『紀里谷に何かが欠けてる』て、それは違うよ。そりゃあお前誰?ってなるよ。神かよって(笑)



正直に話せ。

言葉で終わらない行動に移せ。

美とは何かを考えろ。

考えるだけではなく感じろ。

社会の欲望ではなく自分の欲望を知れ。

自分の人生を生きろ。


良い一日を!



僕は人の好きな食べ物を気にする事が意味わかりません。人の趣向なんてどうでも良くないですか?



僕はいつも国民にガッカリしてますけどね。政治家を選ぶのは国民で、マスコミの視聴率を左右するのも国民で、そのスポンサーの商品を買うのも国民で、溢れる程のデータがあるのに調べもしないで無知を正当化するのも国民で、調べて発言している人達を「意識高い」「上から目線」と蔑むのも国民です。


成人っていう概念が無意味。その集団洗脳から脱しろ❗



そもそも興味という言葉がない。 興味ってすごく中途半端な言葉ですよね。何に興味があるだろう?ないです。


モヤモヤする原因が分からない時はどうしたらよいでしょうか?

という問いに対して

自分への問いかけが浅いんだと思います。もっと向き合うべきかと。とにかく簡単じゃないです。簡単だと思ってしまうからすぐに諦めるのです。


「上から目線だ」という言葉を良く聞く。これは便利な魔法の言葉で、それを相手に言うと自分の怠慢や不甲斐なさが、たちまち正当化されてしまう。この言葉の大合唱によってあらゆる基準が下方修正されて「下目線」になる。

このツイートが上から目線に感じますか? 

全く気にしません😀




意思表示や夢や目標がはっきり

していた紀里谷さんの同級生や同期は今でもその姿勢を崩さずに動けてますか??

という問いに対し、

そんなの知らない。なぜそこまで基準を他人に求める?そこまでして自分に言い訳を用意しなくてもいいでしょ。



企業の大人だろうが、学校の生徒だろうが、講演会でいつも思うが、とにかくレスポンスがない。「わかりますか?」「わかりませんか?」と聞いてもシーンとしたまま返事すらない。そのくせ「世界に向けて発信を」とか「イノベーションが」と言う。意思表示すらできない人間がどうやってやるのだろうか?



退屈だと言うのであればその会議に出なければいい。出なければクビになると言うのであればやめればいい。やめたら生きていけないというのであれば、ちゃんと会議に参加するしかないよね。焼き芋の話じゃないと思います。



世の人々の苦しみの正体は混乱である。自分の中にある矛盾が引き起こす混乱。



住んでいる部屋の壁が毎日1ミリずつ狭くなっているのに、目の前に置かれたモニターから無限に供給される芸能人の下半身の話に夢中で、動き続ける壁が自分の両肩に触れるまで閉じているのに気づかない。


去年の今頃、旅行をしたり自由に人と会う事ができなくなるなんて誰も想像すらできませんでした。同じように来年の今頃、何が起こっているかも誰にもわかりません。とにかく、今できること、今会える人達との時間がどれだけ奇跡的で貴重かということです。


情報源が増え続けると何が真実なのかがわからなくなるという現象を体験している初めての人類。それが私達。しかし、そもそも限られた情報源でも真実は歪曲されていた訳で、その不条理に対するアンチテーゼとして期待されたネットがこの有様。結局、知るではなく信じるしかなくなり、宗教の理屈と同じ。


ほら、こちらも^_^
「世間的には酷評されてるけど好き」って、、、これもよく目にします。前置きなしに好きって言っちゃうと自分がバカにされる、とかそういう危惧があるのかな?
好きでいてくれてありがとう😊



「やりたいことが見つからない、どうすればいい?」と悩む高校生が身近にいるのですが、紀里谷さんならどんな声をかけますか?
という問いに対して、

そんな悩みを持てる豊かな時代と国に生まれた事を心から感謝しましょう。


意識が喪失した死後をイメージすると、そこで湧き上がる疑問は相変わらず「この意識というものはどこからきているのか?」でしかなく、その不思議さが強調されるだけである。


歴史に名を残したいという人達がいるが、彼等は自分が死んだ後にこの世界が存在すると本気で信じている。それは今見ている夢の中に自分の名を残して目を覚ましたいと言っているに等しい。



叶えたい夢がありますが時々挫けそうになります。夢を叶える為に必要な事は何だと思いますか?
という問いに対して

挫けるくらいだったら、その夢本当に欲しいものじゃないんじゃない?


君が無人島にいたとしてもやろうと思ってしまう事が心の声。それ以外は社会の声。


そもそも子供の頃から自分はあまり人の目を気にしない子供だったのですが、周りを見ていて、何故そうなるのだろうとずっと考えてました。人の目もそうなんですが、あらゆる社会問題、戦争、公害なども全て自分がその原因の一端なのです。


そんな事ないですよ。祈りは科学的にもある程度の効果が認められていると聞きます。自分も毎朝祈ります。


時間や自己という概念からの解放ですかね。つまり死が生と一緒になって消えたような感覚です。


自分自身の力を信じられない人間が、国籍や人種や性別や所属団体や肌の色などのありとあらゆる線引きにすがり、それを理由に根拠のない優位性を生み出し、差別と偏見を繰り返す。
その行為は「私は無知で無能で非力であり、自分一人では何もできない馬鹿なんです」と公言してるのと同じである。


量子もつれが生み出す投影されたこの宇宙の中での法則として相対性理論があるという仮説がある。それはそれで理解はできるんだが、そもそも、その量子もつれの表現に不可欠な観察者である意識はどこから来てるんだ?投影像の双子が投影者であるというのなら、それが意識???


「得る」事は誰でもはできませんが、「手放す」事は誰でもできます。今すぐに。それが世界平和と自分の平和の鍵を握っているのです。とってもシンプルでフェアで美しい。


どうせ失うものだから何もするなという事ではなく、手に入れるために一生懸命行動すればいい。しかし手に入れてもそれにしがみつくこをしなければ、執着に苦しめられることはない。


性別、国籍、所属、様々な「名前」は安心をもたらすと同時に自由を奪う。この拘束具に自ら収まる人間がどれだけ多いことか。そして自分の子供や周りの人間にもそれを強要する。そして人間そのものの美しさは失われ、腐臭を放つ。


出る杭は打たれると思ってしまい、やりたい事、言いたい事に封印をしてしまう。そして、その鬱憤から他人の行動に対しても「出る杭は打たれるからやめとけ」と言い始める。ゾンビの誕生。


国、社会、親、友人の声ではなく自分の声に耳を傾け、その通りに発言し行動すれば世界は平和になる。


恐怖の克服がないと世界平和はないのか? しかし恐怖の克服とは生の否定に繋がりはしないのか? 生きる意欲と共に死んでいるという事、武士道に通する境地なのかもね。


この世界は、心の声と、それを疑う恐怖。この二つでしかないように思える。充足感とはどれだけ前者に忠実なのかではないだろうか。



人はいつか死ぬ。そして君を笑う奴ら、苦しめる奴らもいつか死ぬ。そして君を知っている人間は誰もいなくなり、この地球ですらいつかなくなってしまう。であれば自分の思う通りに正直に生きてもいいのではないだろうか?


幸せの反対は不安。不安の正体は未来。未来は不確か。どちらにしろ不確かで根拠がないのであれば、自信を持ってもいい。それが希望ではないか?

事を成す人間は全員その「根拠なき自信」を持っている。「根拠なき余裕」を装うバカども、つまり「根拠なき自信」を笑う者たちに耳を傾ける必要はない。


本当に作りたいものを作って、やりたい事をやって、好きな人に好きと言って、愛している人に愛してると言わなければならない。当たり前だけどそう思う。その他をやっている時間はないんだよ。


根拠がないから自信って言うんだよ。根拠があったらそれは権威だ。それが君らを苦しめる。その自信ってものは文字通り自分を信じるということ。他人がどう思うかなどどうでもいい。いい加減世間体という言葉を消去して自由になれよ!


「ダサい」とか「ダサくない」とか結局は全くの主観。しかしどれだけの人間が特に子供がそれに惑わされ、萎縮して、苦しめられていることか?


俺がこの一年取り組んだことは自分の欲望を認めるという事からだったね。それがどんなに世間体としてまずくても正直に自分に認めるということ。


美しいものに見極められる必要があるのだろうか?審美眼という言葉自体、第三者の視点を意識した恐怖が含まれている。そんなものは必要ない。君は既に何が美しいか知っている。


名言というのは聞いた人達が頷くから名言なのでしょう。と言うことは聞く人たちが既にその答えを心の何処かに持っていないと頷けない。つまり答えはみんな知っていると言うことではないでしょうか?


自分にどこか欠けているところがあると思い込み、それを物質で埋めようとする行為は必要ない。ほとんどが欠けていると思い込まされているだけ。欠けている人なんかいない。


2 件のコメント:

  1. 紀里谷和明さんのTwitterの「日本人が多用する言葉」を読んで私も全くその通りだと思って深く感動しました。その言葉のせいで夢や希望を実現する勇気や自信を損失しそうになっていました。また読み返したいと思っていたら消えてました。記録して頂き感謝しています。

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    1. 自分用だったのですが、こうやってお役に立てて良かったです。
      紀里谷さん、消してしまいますもんね^^;
      また、映画公開が終わったらメディアから消える発言されていて、それがとても残念です。

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