2020年11月3日火曜日

小学校の「あだ名禁止」は人を弱くする

小学校で「あだ名を禁止」にする風潮があるそうです。


そして名前も男女差を無くすという意味合いで「さん」に統一。


確かに名前に関するトラブルは減るでしょうね。


ただ、ここで感じるのは「トラブルの根っこ」は解決されていないのでは?

ということです。


名前を「さん」で呼ぼうが「くん」で呼ぼうが、

別にそれを差別と感じる必要はないはずです。



確かに体は女性として、男性として生まれていても

心は逆であるということがあります。


だからと言って、「君」「さん」で呼ばれたからといって、

呼んだ人が差別の意図があったわけではありません。


その差別を感じたとすれば、

本人の心の中に自然と芽生えたものであるはずです。


それならば、その差別心が芽生えた原因の部分に

メスを入れない限り、何の解決にもなりません。


学校での服装はどうしますかね。

体が男である子がスカートをはいてきたとき、

禁止にしますか?


整列のときはどうするのでしょう。

どっちに並ばせましょうか。


着替えのときは?


正直、どうしても無理が出てしまいます。


それなら無理があるのを承知で受け入れる社会の方が

かえって肩の力が抜けて生きやすいのではないでしょうか。


人間だれもが深く話し合うことはできないのだから、

まずは体の差で区別をしているのが社会であり、

それが良いとか悪いとかの話ではないし、差別の意図もない。

単に今はそのような社会である。

そのことを踏まえて指導する必要があると思います。



あだ名の禁止についても同じです。


あだ名を禁止にしても、変なあだ名で呼ぶ人が悪いのであり、

また、呼ばれたことに対して嫌だと言えない心にも課題があり、

変なあだ名を放置する他の人たちにも課題があり、

そのような課題と向き合うことこそ教育なんじゃないでしょうか。



面倒なことになるのが嫌だから、

とりあえず「あだ名禁止」にしているように感じます。


一見、トラブルは減りますが、何の解決にもなっていません。

トラブルを通して子供たちは生きる力を高めているのではないでしょうか。


そんなにトラブルが嫌ならどうして教師になったのでしょうか。

そもそも学校ってそのようなことを学ぶ場ではないのでしょうか。



禁止、禁止で無色透明。


色が無ければ叩かれることはありません。

色同士がぶつかることもありません。


何事も禁止、禁止、統一統一としていけば、

確かに誰もが一見、苦しまないような学校が出来上がるのかもしれません。


無色透明な学校。


でも、味気ないのではないでしょうかね。


人生は一度だけで、

あんなあだ名で呼ばれたなあ・・・とお酒を飲みながら

思い出す人生は素敵なんじゃないでしょうか。


おじいちゃん、おばあちゃんになっても

同窓会であだ名で呼び合っていたら素敵じゃないですかね。


人間なんて曖昧な存在だし、

曖昧さから学ぶことはたくさんあります。


あだ名一つとってみても、

それがトラブルになるから学びがあるんじゃないですかね。


その学びのチャンスを奪っても、

学ばなければならないことが消えたわけではないです。


必ず目を背けても向き合わなければならない時がきます。



それだったら大人の庇護のもとにある

小学校で大いにぶつかり合って学んだらいいんじゃないですかね。


あだ名禁止、戦いごっこ禁止、禁止、禁止、禁止・・・


どんどん人間が弱くなっていく気がしますね。


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